彼の手に握られているのは1つの封筒。けれど封は切られていないようで、まだ中身は検めていない様子だった。 「……パル、ロッサ……みんな……」 ――そんな時だった。『いただきます』と少年の“頭の中に”声が聞こえたのは。 「――ん?」 “念話”と呼ばれる魔法がある。魔法の力を持つ魔導師なら誰でも使える一種のテレパシーのようなものだ。 今は食事の時間にしてはかなり早いので空いているのは当然だが、これほど少ないのも珍しい。 そんな食事に対する感謝を彼女は彼に伝える必要があったのか、ということもある。 海上隔離施設――ミッドチルダ海上に設置された巨大な施設であり、犯罪を犯したの魔導師達の収監所。 そんな場所だからこそ、収監者は魔法や能力を封印した上で生活をすることになる。 『それにしても、ここの食事は美味しいですね。正直、食生活は捕まる前よりグレードが上がった気がします。ここでの生活は規則正しくて有意義で、なんというかまぁ……私のような罪人には過ぎた待遇ですよ、本当に』 彼女の独り言――否、独り念話は続く。 『生活といえば、愛しの彼女は今頃どうなされているのでしょうか……私のことなど忘れて、日常を謳歌されていればいいのですが。あの時の私はどうかしていました。彼女の気持ちも考えず自身の欲望のままに行動するなど、人として失格です……』 どうやら彼女には意中の女性がいるようだ。女性同士でも愛の花は咲くらしい。 (ひょっとして、彼女は念話を発信していることに気づいてないのか?) 魔法が使える理由は一先ず置いておいて、少年はそんな推測にたどり着く。 『はぁ……気が滅入って来ました……こんな時は彼女の写真でも眺めたいものですが、医師免許と一緒に没収されちゃいましたし……』 まるでラジオ放送のように垂れ流しになっているとはいえ、少年はこのまま他人の思考を聞き入る趣味はない。 (……とりあえず、念話が作動していることを教えてあげるべきかな) 静かに立ち上がり、彼女の元へ行こうとして――。 『うう……見たい、無いとわかると物凄く見たくなるものですよねこういうのって……見たい、見たい見たい見たい見たい! ああ! ルーチェ隊長の麗しくも美しく至福にして至高の“内臓”を見たいー! 出来れば直に!』
少年――クラウス・エステータは、全力で逃げ出した。
『クラウスは以心伝心でトラブったようです』
さらには“希少能力”と呼ばれるレアスキルの中でも更に珍しい『未来察知』を持っている。 愛用するデバイスはアームドデバイス『コルセスカ』。なんとこのコルセスカ、素晴らしいことに槍型である。 今でこそ聖王教会の騎士として活躍する彼ではあるが、その過去を語れば凄惨なものである。 大規模な戦争が続き、食べ物にも飲み水にすら困る硝煙の匂いが渦巻いた世界、それがクラウスの生まれ故郷。 微塵の希望すらない世界が、世界といえるのか。それは地獄と呼ぶのではないか。 しかしそんな地獄も、クラウスが5歳の時に終わりを告げる。“時空管理局”の仲介によって。 されど、幸せな時間は永遠には続かない。1つの戦争が終わろうとも、また始まりの撃鉄が鳴り響くように。 犯罪に手を染め、罪のないものを傷つけ、破滅を呼び込んで。 すべてが終わり自身も逮捕されて、彼が手に入れたものなど皆無に等しい。 自身もまた、犯罪者の汚名を被ったままでは彼の仲間達が住む孤児院に迷惑がかかる。 事件が終結した後、彼は裁判をかけられた。 そんなわけで現在のクラウスはこの場所で大人しく、それこそ模範的ともいえる態度で刑期を勤しんでいたのだが――。
「はぁ……はぁ……し、しまった。思わず逃げちゃった……」 大量の汗を流し、息を切らせながら壁に寄りかかるクラウス。 「――感情?」 その言葉に、引っかかる。念話という魔法は発信者の“感情”まで伝えることはない。 ともすれば、あれは念話ではなく言葉に出来ない意思すら伝達が可能な上位互換の魔法だ。 (どうする……) いまさら戻るのも、気が引ける。正直なところあの感情には二度と触れたくないクラウスである。 『はああああぁ、まずいよなぁ。さすがに“0”が九個付く借金なんて笑いも起きねぇよ……』 ――またか。そう思いながら聞こえて来た声と同じように溜息を吐く。 『どう返済しよう……サークルは潰されちゃったし、もう本は売っちゃ駄目だし……』 事業で失敗でもしたのだろうか、どうやら彼にはかなりの借金があるようだ。 しかしながら、この“声”もまた先ほどの彼女のように声だけではなく“感情”も伝わってくる。 『そりゃ、俺が悪いよ。悪かったと正直に思ってる。前の世界のノリで、こっちの世界の人の迷惑とか全然考えてなかったんだからさ。 (っ!?) 急に大声が頭の中に響いたものだから、びくっとクラウスは身体を振るわせ驚く。 『借金を背負った受けと、それを肩代わりにする代わりに無茶な要求をする攻めってシチュエーション……いいな、次の新刊に描こ――ってアホか俺は!? だからもう薄い本は作れねーんだよ畜生!』 そんなことを考えている青年に、先の彼女とは別ベクトルの恐ろしいものを感じつつ。 (……今度は、ちゃんと教えておこう) そう思えるクラウスは、かなりお人よしの部類に入るかもしれない。 『――けどまあ、妄想するくらいなら構わないよな……ふむ……ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか』 ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか。 ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか ヴェロッサとクラウス、なんて良さ気じゃねぇか。 「はっ?」 クラウスの足が止まると共に漏れた肉声。 「あぁ?」 呆けた声をテーブルに座る青年も気づいたようだ。
■■■
感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する。 意識は感染する。 思考は感染する。 感情は感染する。 感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する、感染する。 そして世界は――完成する。
とあるノートに記載されたその文章を見て、時空管理局の制服に身を包む少年は表情を曇らせていた。 「うわっ、なんだそれ。黒歴史ノート?」 「艦で大人してろと警告したはずだが、プジョー」 「そうは言ってもなアスカ。デバイスの部品を買いに出るくらいいいだろう」 「君は犯罪者としての自覚がないのか!?」 「やれやれ、密入国したくらいで大げさな……」 「密入国は大ごとだ! 地球に続いて二度目だぞ!? 何回管理局の世話になれば気が済むんだ!」 「そんなことより目的の部品が手に入ったんだ。どうだ、お前のデバイスも改造してやろうか? 目算では出力が17%上がるぞ」 「む……それはいいな……」 「その分精密精が35%くらい下がるけど」 「三割下がるの!? デメリットがでか過ぎて釣り合ってないじゃないか!」 「臭さは89%増しだ」 「どんな魔改造をしたら臭さなんてステータスが付くんだよ!? 嫌だろ臭いデバイスなんて生理的に!」 「お前、臭いを舐めんなよ。臭さはこの世でもっとも防ぎにくい攻撃の上位に位置するんだぞ?」 「知るか! 僕のデバイスは君の姉さんが組んでくれたので十分に足りてる!」 管理局員の少年はアスカ・イース、役所は執務官補佐。
バインドで簀巻きにされたプジョーをしり目に、アスカはさらに捜査を続けていた。 「約2週間前から、行方不明か……」 一週間前、この世界の警察に彼の捜索届けが提出された。届けを出したのは彼の友人であるという。 しかし、警察はすぐに動かなかった。否――動けなかった。 ――何百人という人間を襲った『思考が他人に伝わる』という奇怪な現象。 けれど調べている内に被害者達にはとある共通点が“2つ”あることを発見される。 捜索届けもなにも、そのことが判明してから最重要参考人として警察は彼の行方を追っていたのだ。 「目ぼしいものは机の二重底に隠してあったこのノートくらいだったが、十分な収穫だね。ティキ・ニキ・ラグレイトは間違いなく“何か”をしていた――いや、しようとしているということだ」 アスカは発見されたノートを厳重に保管しながら、プジョーに向かって話しかける。 「そのノートが本人のものだったら、だろ。例え本人の家から見つかったって筆跡鑑定が済まなきゃまだわかんないじゃん」 「それはそうだけど、十中八九一致すると思う」 「まあ、状況が状況だしその可能性の方が高いだろうな」 「思考感染事件は彼が起こした何らかの実験だったのかもしれない。“世界は完成する”か……君はどういう意味だと思う?」 プジョー・カブリオレは一見すると不真面目で何も考えていないように思えるが、それは大きな間違いだ。 大抵の人間には理解されないけれど、彼の“直観力”や“発想”といった右脳の働きはずば抜けているものがある。 「……世界の完成ねぇ。方法はわかんないけど、個人の思考を他人に伝達することが出来るってんならそのまんまの意味だろ」 「というと?」 首を傾げるアスカ。そんな彼に向かって、プジョーは不真面目な表情でけらけらと笑いながら――。 「“全ての人間に隠し事がなくなれば世界が平和になる”――ってガキの頃思ったことねぇ?」 そう言った。
■■■
場面は変わり、ここは隔離施設の通路。 『何でクラウスさんがこんなところにいるんだよおおおぉ! 留置所にいるんじゃねぇのかよ!? 嘘っ、ここに移送されて来たのか!?』 「止まれ! 頼むから止まってくれ! 君はなんで僕のことを知ってるんだ!? というか僕とヴェロッサの名前で何しようとしてたこらぁ!?」 少しばかりキャラが崩れるほどに必死で叫ぶクラウス。対して無言で必死に逃げる青年――だが青年の“思考”は何故か念話のようにダダ漏れなのでとてもやかましい。 『しかもなんか追っかけてくるしー! まずいまずいまずいクラウスさんまさか俺のこと、というかあの事件知ってる!?』 「あの事件!? 僕の名前を使ってなにかやったのか!?」 『え、ちょ、今の声に出してたか俺!? や、やばい、あのことがばれてるなら、いかなクラウスさんだとしてもボッコボコに……!』 青年はそうそう考えて、さらに速度を上げた。一方、クラウスは少しだけ速度を落とす。 「お、おい!? なに考えてっ!?」 『もうどうにでも――!!』 速度を上げたのは勢いをつける為。両手を顔の前に構え、足に全力を込めながら――。 「ここは――!」 クラウスは暴走する彼を止めようと手を伸ばすが、あと少しというところで届かない。 「施設の“4階”だぞ!?」 “窓ガラスに突っ込んだ”。 「なれやあああああああああああああああぁ!」 甲高いガラスの割れる音。粉々の破片は空中で太陽光を反射させ、それは綺麗なものだった。 風に攫われる木の葉のように舞う彼の身体。 「ばっ――馬鹿かー!?」 クラウスの叫びももっともだ。下は固いコンクリート、少なくとも怪我ではすまないだろう。 されど、運のいいことに彼の落下地点にはクッションになりそうなものが一つ。 口を金魚のようにパクパクと動かしながら、クラウスは一瞬だけ放心状態に陥った。 「くそっ!? なんてことをしたんだ彼は!? 生きてるんだろうな――!」 これは誰の責任になるのだろうだとか、面倒くさいことをだとか。 けれども無常。この施設を脅かす“異常事態”は、彼の速く助けに行きたいという一心を妨害する。
『わけがわかんねぇ! なんなんだこれは!?』 「どうなってんだよ! この声止めてくれよ!」 「お前がそんなことを考えてる奴だったなんて幻滅だぜ!」 『ふざけるな! 俺はそんなこと思ってない!』 『なんなんだよこれ! なんで考えることが伝わっちまうんだよ!?』 「このクソ野郎が! お前となんて絶交だ! 二度と俺に近づくな!」 『それはこっちの台詞だゲス野郎! てめぇを良い奴だなんて思った僕が馬鹿だった!』 「落ち着いて! 皆さん落ち着いてください!」 『くっそ! 本土から応援を要請しろ! もうこの施設の局員だけじゃ対応しきれない!』 『その口と声を閉じろ犯罪者共がぁ!』
蔓延する悲鳴。交錯する思考。敷き詰める人波に溢れる憤怒と悲哀。
まるで万華鏡を通して見ているような不可思議な感覚。 「随分と楽しそうですね、盟主」 その背後から現れたのは、聖王教会の正装に身を包む女性だった。 「中々の見世物だからさ、シスター」 盟主と呼ばれた人物はシスターに振り向くこともなく、モニターに目をやりながら呟く。 「――“喧嘩”というのはね、“真実”から起きることはそんなにないのだよ。大抵が勘違いだとか、すれ違いだとか、事故だとか、そいうことが発端なんだ。故にこそ喧嘩は解決が存在するし仲直りが存在する、実にくだらないサイクルでね」 だから喧嘩なんてくだらない。勘違いから起きた喧嘩に何の意味があるというのか。 「真実を内包しない喧嘩など結局のところ“争い”などではなく唯のじゃれ合い。“行き着くところまでいかない”、しかしながらこの世に蔓延するのは大抵が“それ”でな」 盟主はワザとらしく肩を竦める。残念なことだと嘯いて。 「違う、全く違う。ドラえもんと21エモンくらい違う。これは真実から発展する“争い”だ。勘違いだのすれ違いだの事故だのそんな不純物は一切ない。本心と本心から始まる“戦争”といっても過言ではなく――いやはや、拾い物にしては、彼の能力は楽しませてくれる」 心底楽しそうに盟主は笑った。聞くものを凍りつかせそうな、残酷な声で。 「それはそうと、その拾い物はどこへ消えたのでしょうか? モニターには映っていませんね」 「資料室だろうね。彼は“革命家”とはいえ酔狂だけでこんなことはしないよ。この混乱に乗じて目的の物を探しているのだろうさ」 「ああ、例の。しかし本当にあるのですかそんな物が」 「さぁ、私でさえ話でしか聞いたことがないからね。まあ、見つかるとしても手がかりだけだろう。彼の“理想”にはまだまだ時間が必要だということだ。しかし、もっと楽しいものはもうすぐだよ」 その言葉に、シスターが反応した。 「もっと楽しいもの……? それは初耳ですね」 「そりゃそうだろう。言ってないからな」 そこでようやく、盟主は椅子を回転させシスターの方へ振り向く。 「実はね、私は“VS物”が好きなんだ。ゴジラVSガメラ、ウルトラマンVS仮面ライダー。スーパーマンVSバットマン。本来なら関わるはずもない物語同士が交じり合って、命を削りあう様は実に妄想を掻き立てられるじゃないか。 「――彼が、誰かと戦うということですか?」 その通り、と盟主は呟くと仮面の一部がきらりと光ったような気がした。 「どうだろうシスター、久々に賭けないか?」 その言葉に、シスターは深く溜息を吐く。 「……はぁ。で、その賭けの内容はなんですの?」 「“思考感染”VS“未来察知”――どちらが勝つか、さ。無論私は、思考感染の勝利にベットさせてもらう」
■■■
たとえば、現行犯の傷害事件であろうとも、その横で現行犯の殺人事件が起きた場合どちらに意識が向くだろうか。 されどどちらが“重大か”といわれれば、それは殺人事件の方に天秤は偏るだろう。 物事には優先順位がついてしまう。それは手が回らないからだ。
「人が4階から外に落ちたんです! 速く医者と人を!」 人波に揉まれながらも、クラウスはそれを掻き分けて前方の出口にバリケード張っている所員の元にたどり着きそう伝える。 「なんだって!? おい、落下事故だ! 医療班呼べ、俺もそこに――!」 「馬鹿言うな! この状況だぞ、ここから離れられるわけないだろう! 誰か手は空いてないのか!」 「全フロアでこの異常事態が起きてるんだ! 騒動による怪我人だって増えてる、医療班も人手もねぇよ!」 所員は「くそっ」と自分自身に悪態をつく。現状では人命が関わっていそうなことすら優先することが難しいのかと。 「……わかった、連絡を感謝する! 君はこの“現象”に巻き込まれていないな? だったらその人のことは我々に任せて君は避難所へ――」 所員が言葉を言い終える前に、クラウスの身は宙を舞っていた。 「おっ、おい!?」 「安否を確認したらすぐ戻ります! 罰則だったらその後で!」 クラウスの容姿は子供。だからこそ所員はそんなクラウスに対して“あやす”ように落下した人物を任せろと言ったのだ。 だったら、彼らが対応出来ないのなら自分が行く。あの青年が落ちたのは自分にも責任があるのだからと。
建物の外に出た。顔を撫でる潮風、そして視界に映る大海原。 ――少しだけ説明を加えておくと、別段建物の外に出たからといって脱走には当たらない。なぜならこの建物が立っている土地もまたミッドチルダ海上に浮かぶ“施設”そのものなのだから。 数分ほど走って、ようやくクラウスの前に目的の場所が現れる。滑走路の敷かれた飛行場の近くに数個の大型木箱。 その中の1つ、あの青年が落ちた木箱が目に入る。呻き声も『思考』も聞こえない。 大量の『ミッドの美味しい水』とラベルの貼られたペットボトル。 「……はぁー……よかった……」 うな垂れるようにクラウスは地面に手をついた。なんという強運、なんという都合の良い偶然。 「よかった、無事で。本当に――よかっ――」 クラウスが、二度目の安堵に胸を撫で下ろしたその瞬間だった。 「っ!」 驚いて、その音の場所を見た。すぐ横だ、おそらく音源は木箱の辺りに――。 「――コル、セスカ?」 二度目の、驚きだった。なぜなら、木箱に“刺さっていた”のは自身の愛機だったから。
「それが、貴様の得物だな?」
静かな声だった。落ち着いていて、けれど凜と耳に残る。 「――――」 クラウスは答えない。その変わり、見定めるようにその声の主を眺める。 「なっ!?」 咄嗟にクラウスはその人物を受け止める。ガントレットの男に見覚えはないが、放られた人物に見覚えはあった。 「う……あっ……」 「大丈夫ですか!?」 頬を叩いて意識を確かめる。意識はあるようだが、息は荒く目線がブレていた。 『だ、大丈夫だ……す、すまない……』 聞こえたのは“声”ではなく“思考”――掛け声に応対できるだけの意識は残っているようだ。 (この人も“思考”が……) しかし重症には違いない、早急に治療を受けねば取り返しのつかないことになりそうだが――。 「急所は突いてはない、が――出血は多い。少なくともこのまま放置すれば間違いなく死ぬだろうな」 ガントレットの男は、拳を構えて冷酷にそう告げた。 「だったら、その構えを解いてそこをどいてくれないか」 「用が終われば、すぐにでも去る。その用事も、お前次第では簡単に終わるぞ――」 その言葉から一呼吸置いて、ガントレットの男は更に目線を鋭く、深く、抉るように見開いて――。
「私の名はティキ・ニキ・ラグレイト。貴様には縁もゆかりも恨みもないが、“スポンサー”の要望だ――私と戦え、クラウス・エステータ」
ティキ・ニキ・ラグレイトとクラウス・エステータ。本来ならば出会うことも戦うことも必要のなかった2人がここに集う。
■■■
――それは違う世界の遠い昔話。 とある世界に1人の少年が公園の砂場で遊んでいた。見てくれは普通の、それこそどこにでもいそうな子供だ。 「お前、俺に断りもなくなにこの公園で遊んでんだよ」 少年に話しかけたのは、ガキ大将という言葉が良く似合う、幼い年齢にしてはとても大きな体を持つ子供だった。 「――――」 少年は答えなかった。 「なんとかいえよ!」 脅すように声を荒げる。自分が強気な態度でいれば大人以外の誰しもが自分のいうことを聞いた。 それでも、少年は答えない。 「……このっ!」 カッとなって、ガキ大将は少年の肩を押した。バランスを崩して少年は砂場に倒れこむ。 ――目の前のこいつは、どれだけ俺を無視すれば気が済むんだ? ガキ大将の握りこまれた拳が少年の顔に入った。鼻血を流しながら再び砂場に倒れこむ。 少年の拳がガキ大将の顔にめり込む。めり込んだとは言っても微々たるものだ。
後日、ガキ大将は頭にコブ、顔に青あざを作って、両親と共に少年の実家へとやって来ていた。 インターホンが押され、しばらくすると扉が開かれる。中から現れたのは少年とその母親。 『なんで俺が謝らなければならないんだ』と、ガキ大将は内心で悪態をついていた。 ガキ大将は暴力的ではあっても、彼にとって暴力とは自身を認めさせる“装置”だ。 別に殴ることが好きじゃない。思い通りになることが好きなのだ。 「……ごめん、なさい……」 そう思ったから、そう言った。 「――――」 少年は案の定、答えない。 そう心で決めかけたガキ大将に向かって、無口な少年の親は切なげな表情を浮かべた。 「ごめんなさいね……この子――1年前にちょっとした事故で……声が出せなくなってるの」 そう、言い放つ。その言葉は、ガキ大将が僅かな年数とはいえ少しづつ積み重ねてきた“価値観”が全て崩壊するような、彼にとってそれほどに衝撃的なことだった。
この両者の邂逅こそが、後に少年の“二度”の生涯を苦しめることになるなど――この時はまだ、誰も知らない。
■■■
「そこの餓鬼の魔力封印を解除しろ」 ティキがそう告げた相手は、クラウスではなく血を流し地に臥せる所長。 『ぐっ……なんだ、なんなんだこの男は……一体、何が目的で……』 「私の目的など知って、この状況下で意味があるのか?」 『……やはり、私の思考が――っ!』 言葉に出していないのにも関わらず、脳内の言葉をティキはさも普通の会話をするように吐き出す。 というのに、所長は“手も足も出なかった”――否、まるで全てが“手の平で踊らされているように”攻撃が通じなかった。 『君にも、聞こえているのか?』 所長はクラウスに目線を向けてそう念じる。クラウスは静かに首を盾に振った。 「三度目はない――解除しろ、殺すぞ」 背筋をうっすらと撫でたのはほの暗い殺意か。されどその意思を感じても、いや感じたからこそ横の少年の封印解除など出来ない。 「なっ……ごほ、ごほっ!」 喉が潰されている、声が出せない。変わりに赤い血が滴り落ちていく。 『……舐めるな……お前がこの少年に何をしたいのかは知らないが、そんな脅しに乗るものか……!』 ここに収容されているからには目の前の優しげな少年ですらまた、何かしらの犯罪者。 はいそうですか、と――屈してどうする。 所長の身体は至るところから激痛が走りとても戦える状態ではない。 「――貴様、何か勘違いしてないか?」 『……なに?』 「私が殺すと言ったのは――そこの餓鬼にだ。そいつと戦うのが目的ではあるが、別段このままでもいいんだよ。ただ本気を出して貰わないと要望と多少異なるというだけの話でな」 『……っ!?』 「貴様のその状態で、優先的に餓鬼を狙う私から守り続けられるというのなら――やってみろ。先も言ったがはずだが、三度目はない」 ティキは右腕を前に翳すと、ガントレットに覆われた手の平に青白い魔力が集約を始めた。 「……解除を頼めますか? 奴は私と戦うことを望んでいます。無礼を承知でいいますが、今の貴方じゃ時間稼ぎにもなりません」 クラウスがそう静かに告げた。一人称を“僕”ではなく“私”と変更したのは意識を切り替えた証だろう。 「私は無力なまま殺されたくない。そして――本気で私を守ってくれようとする貴方を置いて、“逃げたくない”んです」 ただ、そういうことだった。 『だ、が……』 所長の頭の中には二つの考えがある。 そしてもう1つは、“本当に解除してもいいのか”という疑惑。 最悪の事態から最善の事態、複数の可能性を考慮でき、そこから最善手を打てるからこそ所長という地位に彼は納まった。 元より状況が奇妙だ。なぜ“こんな場所で、こんな所で奴はこの少年と死闘を望む”。 「私が奴の仲間ではない、という証明は……今は戦うこと以外で立証できません」 クラウスは、真剣な面持ちでそう答える。他に答えようがない。 「――頭の固いことだ。いや、寧ろ柔かいことだと褒めるべきか」 もはや我慢の限界だと言わんばかりに、ティキの作り出した魔法弾が唸りをあげる。 「ならばそのまま――脳漿散らせ!」 轟と音をあげて青白い魔法弾は螺旋を描き、疾風の如く空を切った。 プロテクションと呼ばれる防御障壁。それを形成したのは最後の力を振り絞った所長だ。 『……すまないっ……』 苦渋の決断だった。このままでは2人とも危険で、他に方法はなかったとしても。 「――ありがとうう」 たった一言、礼を述べる、他の言葉はいらない。 封じられていたクラウスの魔力が雄叫びを上げる。 「そう、それでいい」 ティキの口端がゆっくりと吊り上った。 (一瞬で、終わらせる!) 時間をかけている暇はない。所長は重症の身体に負担がかかるのを承知の上で魔力を消費した。 数秒先の未来を観測するクラウスの稀少能力『未来察知』による“先読み”からアームドデバイス・コルセスカによる一閃。 しかし弱点がないわけでもない。いや、クラウスからしてみれば未来察知という能力は難点だらけだ。 細かいものをあげればキリがない。それでも、今はこの能力に頼らざる終えなかった。 思考を読まれるなど、未来を見ることに勝るとも劣らない厄介さだ。 現在、ティキとの距離は目測で4メートルほど。 “地面に向かって魔力弾を放つ”。 それが未来察知により得た未来の光景だった。 (煙に紛れて攻撃する気か!) クラウスは瞬時にティキの目論見を看破する。 「はぁっ!」 未来察知に間違いはない。ティキは地面に向かい魔力弾を放つ。 “右斜め上から奴のガントレットが自分を狙って飛び出してくる”。 予測通りだ。敵は自分が“作戦に嵌った”と税に入っていることだろう。 「そこっ!」 未来を知るという究極の先読みから繰り出されたクラウスの、空を切り裂くカウンター。だが――“手応えがない”。 「え――!?」 ただコルセスカは空を縫っただけだった。 (さっき見た光景は、これだったのか――!) なぜもっと深く視なかった、自分自身でそう後悔するも、もう遅い。 “左側から頭部に向けて攻撃がく”。 頭部に走る衝撃。そしてバランスを崩しての派手な横転――だがその横転はクラウス自ら行ったことだった。 それが功を成して、決定打にはいたっていない。軋むような頭痛と視界が僅かに揺れるが言ってしまえばそれだけ。 (くっ、奴は僕のことを知っていて戦おうとしていたんだから、この能力が暴かれていることくらい考えつくだろう! 馬鹿か僕は!) 不甲斐ない自分に激怒する。ここに来て、“実戦”の少なさが表に出た。 (“彼”に負けてから、何も成長しちゃいない……!) 地面で回転しそのまま反動で体勢を立て直す。奴はどこにいった、攻撃を受ける未来は視えないが――。 『少年! 気をつけろ! 君はもう――!』 クラウスは背後を振り向く、所長は一体何を自分に伝える気だ? 「黙れ」 いつのまにか、所長の背後に移動していたティキが右腕に残されたガントレットを真っ直ぐに、全体重を乗せ振り下ろしていた。 (え……?) その現実に思考が停止する。 されど――それもまた一瞬だ。次の刹那にはその現実を、理解出来てしまった。 所長が、殺された。 “こんな簡単にもあっさりと、自分を助けようとしてくれた人が殺された”。 「きっ――貴様ああああああああああああああああぁ!」 クラウスの思考を荒れ狂わせるには十二分の光景。 “奴は動かない”。 まだ限界時間を超えていない未来察知が未来の情景を伝える。 「未来が視える、なるほど、素晴らしい能力じゃないか。だが――」 “奴は動かない”。 “奴は動かない”。 “奴は動かない”。 “■■■■■■”。 「私も聞こえているぞ、クラウス・エステータ」 “奴の右拳が自分の顔を貫く”。 確定されていたはずの未来は、たった一瞬で――改竄された。 クラウスの頭が鮮血を噴出しながら跳ね上がった。 “左腕に■る鳩尾に向か■ての追撃”。 軽減したとはいえそれでも多大なダメージはある。未来察知の映像にもノイズが走るほどに。 (――がっ……よ、避けて迎撃、を……) 思考が安定しない。脳漿の荒波に揺らされて頭痛が酷い。 「づぁっ!」 未来察知の映像と同じ行動を再現するティキ。 「こっ、のおおおおぉ!」 ティキの拳の軌道はアッパーのそれに近いもの。鳩尾を狙うには最適だろう。
“左腕に■る鳩尾に向か■ての追撃”。 “■■■■■■■■■■■■■■■”。 “顎に向かって振り上げられる左拳”。
「――ぐっ!?」 またしても、未来が変貌した。 今度は、完璧なまでの直撃だ。先程のガントレットを囮に使い捨てた方の裸拳であった為、致命的な損傷ではない。 (――“あの時か”) 暗転する視界。転覆する思考。 (あの時、所長が僕に伝えようとしていたのは……僕の思考が“伝心するようになった”ということ……) もはや、そうとしか考えられない。 どさっ、とクラウスは背中から地面に叩きつけられて――目の前が、真っ暗になった。
“未来を知る”という先読みのカウンターが究極ならば。
■■■
モニターに映し出されるのはクラウスが一方的に圧倒される光景だった。 「圧倒的ですね。まあ、相手が盟主のお気に入りとはいえ“ヴァン・ツチダ”に負けるような男ですから、仕方のないことかもしれませんが」 賭けの負けを確信しながら、といっても元々“勝つ”という望みなど微塵も浮かべていなかったのだが。 「これ、なんの意味があったんですか? 力量を測るにしても力量さがあり過ぎて参考になりませんし。所長という重要人物が攫われたというのにあの場所に“誰もこない”ということは、拾い物の他に何人か手駒を送り込んで妨害させているということでしょう」 ティキの戦闘能力を確かめたいのなら、彼自身にあの施設に用があったとしても一々そこの収容者と戦わせる必要はない。 しかし、盟主は遊びが好きで戯れが好きでおふざけが大好きだが、そのどれをとっても意味のないことなどしたことがない。 けれど、それは“呼吸をしている”ことには間違いないのだ。 「“彼の能力で互いが互いの醜く薄汚い本心を曝け出される犯罪者達の阿鼻叫喚たる無様さを見たかった。” はっはっはっ、と盟主は笑いながら嘯く。 「意味なんてそれこそ無限にあるのだよシスター、私にとってはな。まぁ、君が納得する理由としては――そう、能力の再確認という所か」 「思考感染の能力を?」 「“両方さ”。この前、闇の書事件を振り返ってみたのだが、どうにもヴァン・ツチダと戦ったクラウス・エステータの持つ“未来察知”という能力に違和感を拭えなくてな。それで彼のことを“少し”調べてみたんだが面白いことがわかったよ」 「面白いこと……まさか彼もまた“同胞”だとでも?」 「鋭いな、その可能性が高いと私は見ている。まぁ、今は同胞であろうがなかろうが関係はない。 振り回されている、と言い換えても言いがな。そう盟主は付け加えて。 「それを確かめたくて、思考感染をぶつけて見たのだが……」 モニターに目を移す。圧倒され、蹂躙され、足蹴にされるクラウスを見て――溜息。 「これじゃ、約束の“10分”すら持たない。期待外れ、というより期待のし過ぎか。残念だシスター、君が賭けた大穴は来なさそうだよ」 「そもそも賭ける対象の選択権が私になかったわけですが」 「残り物には福があるという言葉は愚か者の戯言だったという訳だ」 ――しかしこうなっては、無垢な少年が屈強な大人に嬲られることしか楽しみがなくなるぞ。 血を流しながら、それでもコルセスカを杖代わりにして立ち上がろうとするクラウス。 「それが援助の条件だとしても――何が彼をそこまで突き動かすのか」 本当、天才だの凡人だの常人だの狂人だの革命家だの転生者だのと、世の中には色々な奴がいるな――という盟主の呟きは、虚空に消えた。
■■■
――それは違う世界の少し遠い昔話。 数え年にして15歳。声の無い少年は気弱そうな印象を残してはいるが、順風な成長を遂げていた。 「なぁ僕ー。ちょっとお兄さん達に金貸してくれねー? 大丈夫大丈夫、今度会ったとき返すからさー」 もはやそんな常套句を使う不良など息絶えたかに思えた近代、彼らは絶滅していなかったらしい。 「俺のダチに何してんだクソ共がぁ!」 突如飛来した学生服に身を包む少年のドロップキックによって蹴り飛ばされた。 「な、なんだてめぇ!?」 「おまわりさーん! こっちでーす!」 学生服の少年が大声を上げた。 「……ま、サツなんて呼んでねぇけどな」 こんなのに騙されるなんてどこまで古典的な不良なんだよあいつらは。 「大丈夫か? ■■■。ここら辺は不良が多いから近づくなっていったろ」 ■■■と呼ばれた少年は学生服の少年を見るやいなや安堵の表情。 【大将がこの近くに居るって聞いたから探してた】 液晶の中には声の無い■■■の心情が綴られている。 「……まあ、俺は携帯もってねーから一旦外に出ちまえば連絡つかなくなるけどさぁ。だからって危ないとこに近づくなよ、お前ただでさえなまっちょろいのに。家にでも言付けしてくれりゃ明日にでも会えたろ」 この馬鹿。そんなことを言いながら大将と呼ばれる少年は■■■を小突いた。 「で、なんの用があって俺を探してたんだ?」 再び■■■が携帯を操作する。 【ポップン、新曲が入った。一緒にやりに行こう】 「お、マジで? いいじゃん行こうぜ――つーかこんだけの為か!?」 【うん】 「……お前なぁ」 ■■■はまた笑った。
あの日、公園で喧嘩を繰り広げていた2人の少年は、数年の時を経て親友と呼べる間柄になっていた。 ヒーローなんていないのだと、きっと誰もが一度は思う絶望がある。 けれど大将は違っていた。万人の求めるヒーロー像とはかけ離れているのかもしれないけれど。 ■■■のような弱者を助け、自身のような強者を倒す。 あの日の邂逅は、大将がそのような思考に変貌するほどの衝撃を与えられた。 大将は一度試してみた。言葉を話せないとはどれほど不便かを体験する為に“一切合切喋らない”という方法で。 たった三日で、大将は“ひとり”になった。その結果に大将は恐怖に身を包まれてガタガタと震える夜を過ごす。 怖かったのは、本当に怖かったのは――“言葉を話せなければ人は一瞬で孤独になってしまうという事実”。 あいつは、■■■はあの公園で俺に殴られていた時、どんなことを思っていたのだろう。 時が立ち、親友として毎日一緒に遊ぶ仲になった今もそれだけは怖くて聞けなかった。 きっと地獄の底と同意義だったのだから。 それを知った翌日から大将は少年の元へ毎日遊びに行った。 それから何年の月日が過ぎただろうか。 彼が手にしているのは、当時では最新の携帯電話だった。小型で、持ちやすく、液晶は綺麗。 けれど少しだけ不思議に、というよりは不自然に思った。“言葉を話せないこいつが、携帯電話を買ってもらって喜ぶのか?”
『おはよござます たいしよ』
――ああ、“そういうこと”。だから、こいつは、“こんなにも嬉しそうにしていたのか”。
何よりも一番嬉しかったのは、こんな俺とこうやって“会話”出来ることだったのか――。
「う、ううぅ――か、紙で、ひっく、よかったじゃねぇかよ……メモ帳とかでも、ぅ、さぁ……!」 大粒の涙を流しながら、とびっきりの笑顔で笑う大将を見て■■■はどうしたらいいのかわからない様子で慌てて携帯電話を操作する。 『どしたの おなかいだの』 『だいじよぶ おかさんよふ』 「――大丈夫、大丈夫だから……!」 その日以来、大将は決意した。■■■のような物言えぬ弱きものを助けようと。 言葉など話せなくても、通じ合えるのだから。
「んじゃ、駅前のゲーセン行こうぜ」 『うん、行こ』
『嫌い』
『だいっ嫌い』 『嫌い』 『会いたくない』 『信じてたかったのに』 『近づかないで』 『なんで教えてくれなかったの』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『放っておいて』 『いらいらするから』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『すごく嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』
『きらい』 『だから』
■■■
“脳天に向かっての右ストレート” ティキの右腕が直前で止めると同時に返す左の拳が飛んでくる。跳ね上がるクラウスの頭蓋、弾け飛ぶ血飛沫。 ぼんやりとした視界。霞のかかる思考。脳内はまるでアナログテレビの砂嵐。 「……ぅっ……ぁ……」 頭の中に灼熱のマグマが流れている。それが神経の一本一本を丁寧に焼き尽くしていくのだから堪らない。 「……“ごぼっ”……」 ――なんだ、息苦しいのは当然じゃないか。“地上で溺れる”など珍しい体験、やりたくたってやれはしない。 他人事のようにクラウスは自身の状況を観測する。諦めたわけではない、敗北を受け入れたのではない。 「弱い」 地に伏せるクラウスの髪を掴んでティキは無理やりクラウスを立ち上がらせようとする。 「まさか、それが全力じゃないだろう。クラウス・エステータ、お前にはもっと特別な才能があると聞いているんだがな」 彼は、ティキ・ニキ・ラグレイトは“一体誰の刺客だ”。 「もっと本気を出せ。先は貴様を殺しても構わんといったが、あれは嘘だ。“このまま死んだら非常に困る”」 (……なんだ、こいつは一体、何を求めている……?) 「“何を求めている”、ふん。そんなことを考える暇があれば、私をどう倒すか考えた方が有意義だぞ」 思考が伝わってしまうこの状況においては全てがガラス越しのかくれんぼ。 「どうすればお前は本気を出してくれる? もし今のが全力であるというのなら――どうすれば“成長”してくれる?」 ティキはクラウスを地面に投げ捨て、同じく先の戦闘で未来察知の陽動の為に投げ捨てたガントレットを拾いに向かう。 (思考が伝わっている……となればこの考えも伝わっているはずだ。不意打ちは不可能――) どうすればいい、一体どうすれば目の前の奴を倒せる。 (無意識で繰り出した攻撃ならば或いは通じるかもしれない。けど、無意識下の戦闘なんて芸当、僕には出来ない) 他にもいくつかの対策は思いつく。しかしそのどれもが前もって訓練するか用意が必要なことばかりだ。 “こんな、理不尽なことで”――。 「こんな理不尽なことで、か。はっ、世の中は理不尽なことばかりじゃないかクラウス・エステータ」 ガントレットを拾い左腕に嵌めて、振り向きざまに思考を読み取ったティキが声をかける。 「理不尽に人は蹂躙され、虐げられ、そして殺される。そんなことはな、あの“戦争”を、あの“世界”で生まれた貴様なら――“私達”なら、とっくの昔に体験していて、とっくの昔に理解しているはずだろう」 少しだけ、クラウスの鼓動が跳ね上がった。 「……お前は、まさか」 クラウスのか細い声があがる。体の“中身”が傷ついている為か、声がしゃがれていて聞き取りづらい。 「そう、同郷だよ。私と貴様の生まれた世界は同じ場所だ」 (…………) 「少し昔話でもしようか。覚えているか? “神王”という名の独裁者を」 ――当然、クラウスは覚えていた。その忌々しい名前を。 「古代ベルカ諸王の末裔などと嘯いて、私達の世界を支配し、挙句には養豚場扱い。奴に擦り寄る特権階級だけが贅沢な生き方を出来て、民衆は家畜以下の日々を強要される。 苦虫を噛み潰したような表情でそう語るティキの内心は、それほどの怒りで溢れているのだろう。 「だが、そんな独裁者も民衆の中から現れた“英雄”によって敗した。英雄は虐げられ続けた弱者達で解放軍を結成。それを率いて自らの命と引き換えに神王軍を打倒。良い話だ、まるでおとぎ話の物語のような――しかし」 “世の中”というのは、めでたしめでたしで終わる絵本とは違った――とティキは続ける。 「偉大な“リーダー”を失った解放軍はあろうことか“新たな秩序を作るのは俺達だ”と内部で意見を違わせ分裂。 平和が欲しかったはずなのに。 神王と英雄の、強者達と弱者達の戦争が終わって訪れたのは幸せな世界などではなく――弱者同士の終わらない戦争だった。 「だからこそ、もう一度言おう――世の中は理不尽なことばかりじゃないか」 そんな世界で生まれ、幼少の日々を過ごしたクラウスだ。
『降伏するんだ、ツチダ空曹。これ以上の出血は危険だ。実力差がありすぎる事ぐらいわかっただろう、君に勝ち目は無い』 『やだね、俺はなのはを連れて帰る』 『そんな事が出来ると思っているのか! 実力差が分からないわけじゃないだろう。いや、そもそもこの命令は……』 『上から来ているって? 聖王教会のお偉いさん……しかも、トップクラスの誰かだろう』 『知って……』 『貴方が口を滑らした事から推測したんだけど、当たってたみたいですね』 『そうだ、君の言う通りだ。仮にここを切り抜けても、次はもっと悪辣な手で彼女を捕らえに来るかもしれない。君だって分かってるだろう、聖王教会という組織の力を!』 『知ってるよ。でもさ、それが何?』 『何じゃない! 大きな力には結局勝てないって分からないのか!』
それはいつか、クラウスが戦った勇敢な管理局の少年と交わした会話だった。 「人はいつだって理不尽を強要されるし理不尽を強要する。その定理は壊れない、人が人で或る限り。今まさに理不尽を強要される貴様とて、理不尽を強要させたことがあるはずだ。例えそれが本意でなかったとしても」 (……ロッサ……高町なのは……) いたいけな少女と親友の顔が思い浮かぶ。 それは一体どれほど理不尽なものだったのだろう。どれほど悲しくて、どれほど辛くて、どれほど酷くて。 「……まぁ、だからといって理不尽を受容しろと言っているわけじゃない。寧ろ逆だ。理不尽という存在はこの世から絶対的に淘汰されなければならない存在だと思っている。 (目的……?) 「貴様は先程、“何を求めている”と考えていたな。それに対して私は知っても無意味だと返したが、撤回しよう――。 少しの間だけ、ティキは目を閉じた。瞑想のように口を閉じ微妙だにせず――。 「――全人類の“思考感染”による革命。それこそが私の目的だ。貴様もここに来るまで体験しただろう? というより、今まさに貴様の思考が私に漏れているのも、同じ事柄。 言葉の端々から感じるのは確かな“狂気”。 (……こ、こいつは……) それが絶対なのだと信じている“狂信”。 「“きっと、全次元世界が平和になるんだよ”」 (一体、何を言っている?) 道中に、そして現状で起こっている不可思議な現象はそのレアスキルが原因か。 そのレアスキルを全人類に使用して他人に思考の全てを伝わるようにする? 「あれは平和に続く為に必要不可欠な“準備段階”だ。皆々、自分達の身に起こった変革に混乱しているだけに過ぎない。 人には呼吸という能力が必要なように、鼓動という能力が必要なように。 「考えても見ろ、本心が他人に伝わることがどれほど素晴らしいことなのか。 確実に本心だと、誠実に本音だと確信するには“言葉”など不十分で――不透明。 「完全に正しく、真なる手段でなければ人は解り合えない。勘違いして、どうしてもすれ違う。 「…………」 クラウスは答えなかった。あまりの滅茶苦茶な極論にどう反論していいのか、どうすればいいのか。 「さて、どうだクラウス・エステータ。少しは覚えて貰えたか“危機感”って奴を。 “大切な人”。投げかけられたその言葉に、クラウスの心臓が小さく高鳴った。 「ふん――“パル”に、“ヴェロッサ”ね……」 しまった、とクラウスが思った時にはもう遅い。すでに“思考”は電波している。 「無駄だ。“連想”とは思考の条件反射。言葉は制御出来ても思考とは本能に従う構成で作られている。特殊な訓練もせず――連想から逃げられる人間はいない。“こんな風にな”」 ティキは地べたに這い蹲るクラウスに再び近づいて、その耳元に口を運ばせ――言葉を紡ぐ。 「“面会”、“再開”、“後悔”――」 その言葉の一つ一つは、大した意味を持たないありふれた単語なのだろう。 (やめろ。やめろやめろやめろ――!) 脳内をその言葉で埋め尽くす。覗くな、人の心を。聞くな、僕の思考を――。 「“なるほどな”」 ティキの足がクラウスを体を真横に蹴り上げた。 「や、やめろっ――!」 金切り声をあげクラウスは抵抗を試みるが、ダメージを受けすぎた体はいうことを聞かず。 「これか」 その言葉と共にクラウスの懐から取り出されたのは一枚の“手紙”。 「返せっ……!」 自身を踏み下すティキの足を、目の色を変えてクラウスは掴んだ。腕力の全てをその手に集中させたその力は万力にも等しいだろう。 寧ろ――彼はここで始めて、暗く凍てついた表情を崩して見せた。
「断る」
手紙を握り潰す。音を上げて形を歪ませる手紙だったものは、まるで1つの肉塊にも見えた。それを、紙くずのように投げ捨てれば――。 天を裂く様な怒号たる雄叫びが轟く。
その、あるいは悲鳴とも取れるソプラノの絶叫音楽に鼓膜を震わせながら――。 (ああそうだ。もっと怒れ、もっと吼えろ。クラウス・エステータ) ティキ・ニキ・ラグレイトはその表情をさらに破顔させた。 (殺す気で来い。四肢を斬り捨て、腹を引き裂き、臓を引きずり出し、頭蓋を砕く殺意を抱け。全力で来い。今の今までが全力だというのなら――自身すら知りえないその“先”を総動させろ) 冷たい、血を通わせないガントレットが熱くなっていくのがわかる。 (私はただ、その上を超えていくだけだ。それでようやく、スポンサーからの“依頼”は達成される――!)
画して、初戦は襲撃者の圧倒に終わる。 未来を視る者、クラウス・エステータ。 “転生”という不可思議な経験を得て、同じ故郷に生まれ、似通った能力を持つ二人が織り成すのは。 仮面で全てを覆い隠す暗雲の存在が、思わず陶酔の吐息を漏らすほどの――“殺し合い”だった。
■■■
――それは違う世界のほんの少しだけ遠い昔話。 その日――言葉の話せない少年と出会った公園のベンチにぼんやりと腰掛けていた。 「……死んじゃえ、かー」 『よく考えて死んじゃえ』。巻末に記されたとても素っ気無く、けれども重みのある一文。 「――ふっざけんじゃねええええええええええええええええぇ!」 携帯電話を突如として脳髄の中で渦巻いた怒りのままに地面に叩き付けた。 「俺があいつになにしたっていうんだよ!?」 それでも怒りは収まらないらしい。立ち上がって、力任せに公園のベンチを蹴り上げる。 「はぁ――はぁ――なんで俺があいつに嫌われてんだよ」 肩を、体を上下させて発散しつくした息を必死に整える。 自分を見つめる■■■の眼は、今まで見たことも無い憎悪に彩られていて。 「どうなってんだ……なんでこうなった……」 嫌われることの、恨まれることの心当たりは何一つ無い。 「――誤解だ。勘違いで、すれ違ってるって奴だ……今まで仲良く出来てたじゃねぇか、大丈夫……誤解さえ解ければ、またいつも通りだ……」 ふらつく足取りで、血を点々と地面に落としながらも大将は■■■の家を目指した。 ――そこに、正義感なんてものは存在しない。あるのはただ“意味”。 そんな彼だからこそ、気づけなかった。
「――え?」
大将が彼の家を訪ねて目にしたのは、救急車やパトカーといったさながらテレビドラマのような光景だった。 しかし警察の対応は早い。身体が出来上がる前の少年を即座に取り押さえることなど容易いものだ。
「――うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁ!?」
なぜなら大抵の人間は躊躇って深く“切れない”からだ。もしくは、深く切ったつもりでも切れていないから。 故にリストカットは自殺に向かない方法と専門家からは認識されているし、寧ろリストカットは“心の病”を知らせる救難信号とされている場合が多い。 けれど■■■はリストカットで死んだ。発見が遅れ、判明した頃にはすでに事切れていた。 ――そんなに、死にたい事があったのか? 大将は自然とそう呟いて、■■■が死んだということを聞かされてからあてもなく夜の街を彷徨った。 漫画やテレビの中に満ち溢れた概念、人が必ずたどり着くもの。まあそもそも身近な人間が死ぬということは始めてではない。 「……こっちに死ねっていっといて、勝手に自分が死んでんじゃねーよ」 なのに、自殺って。 「――――」 悲しいはずなのに涙が出ない。といより――それほど“悲しい”という感慨すら思い浮かんでない。 (結局、俺はあいつのことを理解出来ていたつもりで、何一つ“わかっちゃいなかった”ってことか? 俺の何を恨んでいたかも知らず、自殺の原因すら一概も浮かばずに) “お前に俺の何がわかるっていうんだよ”。よく聞く台詞だ、余りにも使い古されて、もはや飽和している事柄ではあるけれど。 「いや――違う」 会話とは、所詮“外面”で行われる意思疎通。 言葉は時として嘘がつけるから。言葉は時として足りないから。 「あいつは、俺の傍から居なくなることなんてなかった」 皆、そうなればいいのに。 その連鎖の延長線上に――平和があるんじゃないか。 「くれよ……くれよ」 大将は心の底から渇望する。そんな奇想天外の能力を。 「悪魔でも、神様でもいい――俺に、俺に、俺に、俺に」
あいつを救うことが出来た力をくれ。
色を変える信号は、自らの存在意義を果たしただけだ。
何よりも、赤信号で横断歩道を渡った彼が悪かった。
「――ぁ」
結局、声を出せない者がいるように、眼の見えない者がいるように、耳の聞こえない者がいるように。
「――なんだってんだよ……これは、これは――!?」 次に眼を覚ましたとき、少年の目の前に広がっていたのは天使たちが舞う天国などではなく。
■■■
怒気の込められた槍の一閃がティキの額を貫こうと宙を走る。 「はあああぁっ!」 雄叫びを上げる少年はコルセスカを引き戻し、振りの大きい長打の一撃から威力は小さくともとにかく“当てる”為に短打の連続突きに切り替える。 「――っ!」 しかし、その未来を変貌させるが思考感染。 続いての二撃目は脅威の切れ味を持つ真剣であろうと防ぐ強度を誇る右手のガントレットで弾いた。 ――けれど、それをクラウスは未来察知により“知っていた”。 自身との距離を高速で縮める彼を待ち構えるのはクラウスの容赦無い上段蹴り。 ――されど、それもティキは思考感染により“知っている”。 「っ――!?」 咄嗟に、少年は身を後ろに引きそれを避ける。 彼の騎士甲冑を剥ぎ取れば、その下から現れるのは無数の打撲痕と切り傷だろう。 (……だから、どうした) それでも――クラウスは構わなかった。 「そんなに、手紙のことが気に障ったか」 仕切り直しか、ティキは後ろに下がったクラウスを追撃しなかった。 「くだらないな。その手紙の内容を読んでもいないのに、“読む勇気すらない”くせに、その為に身を粉にするとは」 「黙れ……!」 「ふん。その手紙の内容、一体何が書かれているんだろうな。“辛かったら帰って来い”だとか“罪なんて私達は気にしない”だとかか?」 「黙れと、言ったぁ!」 軋む体躯の悲鳴を無視してクラウスは突貫する。 「だがなクラウス。それは果たして“真実の言葉”か?」 急所に向かう穂先を、ガントレットが弾く。 「どんなに綺麗な言葉が書かれようとも、どんなに真摯に語り合おうとも、それは“本心”なのかわからない」 突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き、突き、弾き――。 「相手を気遣う言葉は優しくあっても“本当”じゃないかも知れない。相手を思いやった文字は温かくとも“真実”じゃないかも知れない――!」 戦闘が始まって終始静かだったティキの口調が、ここに来て荒々しく猛り始めた。 「誰かを汚く罵倒する言葉にだって“理由”があるはずだ! 相手を呪う文字だって、おぞましくても“何か”があったはずだ! でも隠された思いなんて、隠した心なんて、“相手は”わかるわけがない!」 されどその言葉はクラウスを責め立てるというより、どこか、違う誰かのことを言っているような――。 「結局――何が“悪かったのか最後まで”気づくことはなく! 結局! “死んでからだって”後悔に苛まれる!」 誰のことを言っているのか。何のことを言っているのか。 「手紙なんて必要ない! 言葉だって、文字だって必要ない! 本当に必要なのは――紛うこと無き“本心”だ! 槍の連撃を弾いて防御するだけだったティキが、攻めに転じる。 「人は――伝えるべきなんだよ! 善意であれば真のものを! 悪意であっても真のものを! 本物の思いを! 思ったことを! ティキのガントレットに魔力が籠もる。大気が渦を描いて集約する様は一個の嵐にも似通っていた。 “せめて一矢報いる”のではなく――自分の仲間を守るためにも、こいつだけはここで倒さなければならないと確信したから。 (もう少しで……もう少しで……!) 何かが見える。 何かに届く。 それは、或いはティキ・ニキ・ラグレイトが言っていた“先”という奴だったのかもしれない。 それを掴みさえすれば、この世界に“災厄”を振りまこうとする眼前の敵を、きっと。 ――コルセスカを握る手に力と魔力を宿す。これから放つのは自身の持てる最高の技にして、最高の師と呼べる人から授かったもの。 「――来い。これで最後にしてやる」 互いの動きが、手を少し伸ばせば簡単に届く位置で計ったようにぴたりと止まった。 クラウスが放つは“烈風一迅”。 ティキが放つは“名も無き正拳”。 未来察知が映し出す未来は果たして勝利か、敗北か。
両者の魔力は咆哮を叫び唸り狂い、眼前の敵目掛け――持てる最大の一撃を解き放った。
槍を突き出した体制のままでクラウスが、拳を突き出した体制のままでティキが。 ただ、どちらか1人が己が勝利を佇ずみ謳う。 わき腹から夥しい血飛沫を流し、ティキ・ニキ・ラグレイトはそう告げる。 ――そんな光景を、もはや嘲笑も何もかもが無くなった顔でティキが見つめる。残っているのは、酷く虚しそうな無表情。 「……見ているんだろう“盟主”、依頼は終わったぞ。ここから脱出する、人を寄越せ」 彼はクラウスの烈風一迅により切り裂かれ、血が止まらないわき腹を押さえて。 『――あ、あー。テストテスト。聞こえてますー? ティキさーん?』 低く、そして若い声だった。どこかふざけているような、砕けた口調。 「誰だ貴様」 『OK、OK。聞こえてますねー。ん、自分ですか? 初めましてー、自分は盟主の部下で、この戦いに邪魔が入んないように縁の下で舞台を支えてた力持ちですよー。 「“タナトス”が月給制だったとは知らなかったよ……それは盟主に言ってくれ。いいから迎えに来い」 『それなんですがねー。まだティキさんを返すわけにはいかないんですよ』 「――裏切る気か?」 『いえいえ、滅相もない。自分も、盟主も、立派に依頼遂行に励んでくれている新しいお仲間にそんな酷いことしませんて。ただねー“依頼が終わってもいないのに”帰ろうってのが、まずいんすよー』 「……?」 『ティキさん、依頼内容覚えてますかー? クラウス・エステータを10分間ほど煽って“本気”にさせて、それを“殺す”って話でしたよね』 「……その通りだ。だからこそ、今まさに私はクラウス・エステータを本気にさせて、確実に“殺した”は――」
ゆっくりと、ティキは後ろを振り返った。
“絶対に■がさ■い……”
幽鬼のように、クラウス・エステータが立ち上がっている。 それでも、真っ直ぐにティキ・ニキ・ラグレイトを睨みつけながら――立っている。 鮮血の流れるわき腹が、滲むように熱い。 (なぜ私が、斬られている?) ――そう、そもそも“完璧な”カウンターであったのなら、“ティキが傷ついている”こと自体がおかしかった。 (……思考を、読み違えた? この私が?) そうとしか考えようがない。でなければ、クラウス・エステータがああして生きているわけが――。 『理解出来ましたー? 舐めちゃいけませんて。頭を潰して心臓抉って、それくらいしてようやく“殺せた”って思えるくらいには頑丈なんですよ、人間は。盟主の依頼はまだ終わってません。手心真心加える間もなくちゃっちゃとやっちゃってください』 「……了解した」 納得出来ないものがあるが、それでも目の前の少年はすでに死に体だ。 生きているにしたって、そのまま寝ていれば或いはどこかで見ているタナトスの一員も“見逃した”かもしれないのに――馬鹿な奴だ、とティキは呟き拳を握り締めて彼の元に歩み寄る。 「もういいだろう、クラウス・エステータ」 慈しみすら混じった言葉がティキから漏れる。
“■■■■……”
クラウスの血に染まっていない所など一切無い右腕が、徐々に上がっていく。 「――まだ、諦めないとは」 驚愕を受ける。その精神力の強さは、今までティキが出会った全ての者達を遥かに超えているようにも思えた。 「……」 ティキが拳を振り上げる。先と同等の魔力がガントレットに包まれた拳を凶器に変える。
「ごっ!?」
“完全なカウンターでクラウスに殴り返された”。
■■■
――それはこの世界の昔話。
自身の身に起こった“転生”と呼ばれる出来事。 「…………」 転生した先の世界が死に満ち溢れる地獄と同義の世界ということもあったし、何よりもこの世界には■■■が居ない。 もうどうでもいい。何もかもが、どうでもいい。 「兄ちゃん……怖いよぉ……」 この世界の彼を兄と呼びながら、その身を爆撃の恐怖に震わし怯える年端もいかない少年は彼の“弟”。 「そうだな、俺も怖いよ」 抱きとめてそう呟けば、ルゥカの怯えが少し消えた気がした。ルゥカは甘えるように彼の体の中で蹲る。 ――俺も怖い? ああ、怖いなんてどの口が言っているのか。 ティキ・ニキ・ラグレイトという者の人生を“奪っておいて”。 ■■■すらいないこの世界で、■■■すら守れなかったお前が。 こんなところでなにやってんだ? ――茶番だと理解しながらも、そんな自問自答を自身に問いかけて。
この世界は終わらない戦争をやっている。 神王という独裁者を倒すために、世界が1つとなって集結した解放軍。 ――支配から開放されたのだから、もはや彼らに抑制という鎖はない。 何にかが、一歩間違えたから――何かが、果てしなく狂っていく。 強大な解放軍が分裂し、世界を2つに分けて戦う泥沼は激化した。 戦争も末期の段階だ。弾薬は撃ち尽くし、食料すら禄に無い。
「……にい、ちゃ……」 「うあああぁ!? ル、ルゥカ……う、うううう……」 口から血を流し、ぽっかりと胸に孔を空けたルゥカの小さな体。 「こほっ、こほっ……にぃ――ちゃん」 「だ、大丈夫だ、あ、安心しろ、ルゥカ。い、いま、兄ちゃんが助けてやるから……!」 避難所へ向かう、道中の悲劇。味方と言える兵士が撃ったのか、それとも敵が撃ったのかすらわからない流れ弾がルゥカを貫いた。 しかも、それが。この世界に来てティキが唯一心を開けた“家族”なら尚の事。 「……ぁ……ぅ……」 「ルゥカ、ルゥカ! しっかりしろ!」 もはや喋ることすら出来ないのだろう。言葉を発せようにも逆流した血液が口内に溜まって呼吸すら困難だ。 「なんだ、なんだ? 何が言いたいんだ……ルゥカ? は、ははは、わかんねぇ、全然、わかんねぇよ……」 涙の雫を落としながらティキは“笑って”そう告げる。 『兄ちゃんはあまり笑わないけど、兄ちゃんの笑顔は優しい感じがして好きだよ』 ティキ自身そうは思えないが、それでもルゥカがそういうのならそうなのかも知れないと。 ――“また、何も理解できず見てることしか出来ないのか”。 自身の無力が恨めかしい。なぜこうして倒れているのが逆ではない。 本当に、なぜ俺は生きている? あの時――車に轢かれて死んでいれば、それで終わりだったじゃないか。 何で俺は、そうまでして生き延びねばならなかった。 「ぃ……」 「……ルゥカ!」 ルゥカの小さな手がティキの頬に向かって伸びている。 “やっぱり、兄ちゃんの笑顔は――大好きだよ” 「……これは……?」 頭の中に響くのは決して声ではない。似てはいるが、非なるもの。 その思考の中には、沢山の感情があった。 限りない思い。果てしない感情――ティキが望んで已まなかった“他者の本心”。 “……兄ちゃん、大好きな兄ちゃん” 「な、なんだ……なんだ? ルゥカ……」 大好きだといった、ティキの笑顔に負けないくらいの、飛びっきりの笑顔をルゥカは最後に浮かべて。 “僕の分まで、いっぱい、生きて、ね――次、があった、ら……また、兄ちゃんの……弟がいいなぁ……” そんな、思考を残し――ルゥカ・ニカ・ラグレイトは静かに息を引き取った。 でも、それがどんな宝石や美術品よりも綺麗なものだとティキは思えた。 「……ああ、次も俺達はきっと兄弟だ。今度は、本物の“ティキ”と、“■■■”も一緒に……皆で……ゲーセンでも行って……」 体に力が入らない。気を抜けば奥底を支える芯すら折れてしまいそうだ。 ――この世は理不尽と不理解に満ちている。 他人の気持ちがわからないから簡単に銃を向けて引き金を絞ることができ、それが理不尽となって世界を覆う。 ――それほど遠くない場所で銃声と悲鳴が聞こえる。戦禍の大乱は未だ近く。 「――やる……」 誓うが如く呟いてティキは立ち上がった。 「壊してやる……」 純黒の髪が怒髪天を衝くかのようにささくれ立つ。
その日、ティキとルゥカの街で戦闘を繰り広げていた2つの一個小隊が壊滅した。
――それとは余り関係のない大局の中で、“英雄”と共に戦乱を駆け神王を打倒した仲間の最後の1人が死亡。 それを機に、度重なる疲弊により戦争継続は不可能と判断した両軍が極秘裏に接触。 時空管理局という第三者を仲介に挟む事により、この世界の戦争は終わることになる。 ルゥカ・ニカ・ラグレイトが死亡した、わずか一週間後のことだった。
それから長い年月が立ち、一時の平和を得たその世界で、表では弟を失った戦争の犠牲者として悲観に暮れる兄を装いながら。 そうしてわかったことは3つ。 「世界を感染させ嘘偽りのない世界を創るには……資質を持たない人間にも効き、かつ永続的に能力が持続しなければならない、か」 訓練を重ねれば能力の継続時間と効果範囲は少しずつ伸びたが、それが永続的となれば訓練だけではどうしようもない。 「レアスキルを別次元まで進化させなければならない……だが、私だけの力では……」 一人称を私と定めたのは内面の変化の証か――研究に行き詰まり、ティキは顔を洗おうと洗面台に近づいた。 「すまないな……ティキ、お前の体をこんなにまでしてしまって……ルゥカが見たら、もう兄と呼んでくれそうに――」 そこで、ふと思いつく。 だったら、或いは存在するのではないか。レアスキルを進化させる“レアスキルを持つ者”が。 思い出そうと、脳内の記憶を片っ端から漁る。 『“能力強化”ってレアスキルがあるらしいぜ。んで、その能力を危惧した政府はそいつをミッドの隔離施設に――』 きっとそれは、都市伝説などそういう類の与太話だったのだろう。 「忍び込んで収容者の履歴を見れば……いや、無謀すぎる。たとえTHTUがあっても……」 そうティキが考え込んでいると家の呼び鈴がなった。 「やあ、ティキ・ニキ・ラグレイト。始めましてかな」 「――始めまして。君は、誰かな」 「誰? うーん、誰……フィアッセ……晶、蓮飛、那美、久遠……まあ、取り合えずは不破ナノハ、もしくは盟主と呼んでくれ」 そんなふざけるような様子の子供にティキはイラつきを感じるが、ここで怒鳴り追い返すのは“表側は善人の常人”で通しているティキがすることではない。 「そうか。で、そのナノハちゃんは私に何か用かな?」 「そう、そうだとも。私の名前など意味が無い。意味があるのはこの用事だけさ――ティキ、我々と一緒に来ないか?」 「……は?」 「君が世界を変えたいと思っていることは知っている。それを手助けしてやろうというのだよ」 「がはっ!」 ティキの体が背後の壁にめり込む。その衝撃で体の骨が何本かイカれたようだ。 「ははっ、すまない。反射的に防いでしまった。思ってみれば、君の能力――私は思考感染と呼ぶことにしているが、それを受けても何の問題もなかったな」 と口では謝ってはいるが誠意は皆無であろう盟主は悠々とティキの傍に近づいていく。 「さぁ、魔力を込めて私に“触れたまえ”。それで君の能力は発動するのだろう? 遠慮はいらない、存分に知るといい――私の本心を」 無防備に、盟主は両手を広げて立ち尽くして見せた。 先ほどまでは感じなかったが、今はこうして相対しただけで、背筋に氷のナイフを突き立てたられたような焦燥が沸き立つ。 こいつの本心を知れ……? 無茶をいうな、とティキは思った。 理解する前に、狂ってしまう。 「……ぐっ……ううぅ……」 「なんだ、触れてくれないのか。残念だよ“お兄ちゃん”。まあ、それはさて置き、お聞かせ願えるか? 付いてくるのか、来ないのか」 悪意をかき集めたような邪悪な微笑みを浮かべて盟主は手を差し出した。 ――しかし。 「……3つ、聞かせろ」 「何かな?」 「どうして私の能力と目的がわかった」 「君が能力の研究に使った人間の中に私のシンパが居てね。駄目だよ? 実験に使ったモルモットはちゃんと始末しなければ。 「……2つ目。能力強化というレアスキルを知ってるか」 「――ああ、レアスキルを進化させるレアスキルって奴かい? 話は聞いたことがあるが、目にしたことは無いね」 「最後だ……お前に付いていけば――俺の望みが、世界を変えることが、“本当に”叶うのか?」 「それは君次第だ。けれど幾つか私に協力してくれれば、全力を持って私は君に助力しよう」 ――だが、ティキは“待っていた”のかも知れない。 奈落の底から差し出された手すら受け取ろう。 「――ようこそ、タナトスへ。では早速だが、君の能力でこの辺り一帯の魔力を持つ全ての人々に思考感染を使ってもらえないかな? 後に思考感染と呼ばれる事件がこの後日に巻き起こり、この世界からティキは姿を消すこととなる。
「ああ、これから君は能力強化の足跡を探しに海上隔離施設を襲撃するんだろう? それとは別にやってもらいたいことがあるんだ。なに、簡単な事さ。少しばかり他愛の無い子供を嗾けて欲しい」 盟主がどこからか取り出したデータディスクを閲覧すれば、クラウスという少年騎士の詳細がこと細かに書かれていた。 「殺せというのか。こいつを」 「その通り。オーダーは1つ――彼の魔力封印を解き放ち、“10分”。10分ほど彼を身体的に、精神的に叩き潰して“本気”にさせろ。そして“殺せ”。それが助力の条件だ」 「……それに何の意味がある? 私はお前のヒットマンになったつもりは無い」 「なら、タナトスの力を借りずに施設に忍び込んで見るかい? 収容者の履歴がある資料室までは入り込めても、脱出できるとは思えないがね。だからこそ君は私に付いて来たはずだ」 「――ちっ、いいだろう。クラウス・エステータをお前の望み通り殺してやろうじゃないか。 その言葉を聞いて――盟主は笑った。 「……ふん」 成しえなければならない理想に比べれば、他者を殺すことに躊躇などなく、禁忌すら感じない。 それに――クラウス・エステータが如何な力を持とうが、如何な素質を秘めようが、ティキは何一つとして負ける気はない。 相手がどう動くか、何を考えているのか。 本心は、嘘をつけないから。 (……待っていろ、クラウス・エステータ。今お前の未来を奪いにいく) こうして、ティキ・ニキ・ラグレイトとクラウス・エステータは出会う。
思考感染から生み出される“他人の思考を知る”という情報収集からのカウンターは確かに最強であろう。 されど、未来察知から生み出される“未来を知る”という先読みのカウンターは――究極であるということを。
■■■
「こんな、馬鹿な――!?」 「づっ、あああああああぁ!」 咆哮と同時に怒涛の猛攻をクラウスが仕掛ける。 「避けきれない――だと!?」 ティキの肩を、腕を、腹を、頬を、頭を、腰を、足を――突く。 ほんの少しの距離を取り、血に濡れたコルセスカを後ろに構えて力を溜めこみ、クラウスはティノの体躯を狙う。 未来を見通す必中の一閃が奔る。 “ただ全力■奴の胸元を” そんな思考を聞き、ティキは瞬時に戦略を立てる。胸元に迫るであろう穂先を回避し、そして突っ込んできたその体躯にカウンターを叩き込む。 (今度こそ――沈め!) そしてこの瞬間、“変貌した未来”を咄嗟に垣間見ることがクラウスには不可能。 “――目標を肩■に変更” 「ぐっ!?」 しかし現状は違う。クラウスは見えていた。変貌した未来を瞬時に見定めていた。 肩の肉を微かに抉られる。本来ならば二度と腕が上がらなくなるほどの傷を負ってしまうところだったが、辛うじて避けれた。 「おおおおおおおおおおおおぉ!」 「餓鬼がぁ……!」 槍と拳が鬩ぎ合い火花を散らす。 ――驚くべきことに、今の攻防に使われた時間は僅か“1秒”を切っている。 (これが、本当に、先ほどまで取るに足らなかった未来察知だというのか――!?) 確かに、相対するティキからしてみればクラウスの変わり様は急成長といって他ならないだろう。 ――しかし違う、それは明らかに今までの未来察知とは違っていた。 “未来が見えるなら全部見なきゃいけない。見えない自分は未熟だ”と思い込んだその生真面目さ故の過ちだった。 だが彼の能力は“未来察知”であり、“未来視”ではない。 完膚なきまでに叩き伏せられて、朦朧とする意識を超えて辿りついた真の境地。 (くっ、レアスキルが多少強くなったといっても、未だ優位なのは私のはずだ――!) 攻撃を何とか弾きながら、ティキはクラウスの体を凝視する。 酷い出血量だ。このまま動き続ければ確実に死に至るだろう。 今こうしてクラウスが攻勢を続けれられること自体が出来の悪い悪夢なのだ。 (所詮は――燃え尽きる前の蝋燭に過ぎない!) ティキが突貫した。それを向かえ打つクラウス。 空を切り裂く一閃と一閃。 ブチブチと槍が腹部を突き抜ける感触に意識が飛びそうなほどの痛みと吐き気に耐えながら突き進み、薙ぐように腕を振った。 (ごはっ、がっ――だ、だが……これでっ……!) 意識の飛びそうな激痛の中でティキは思う。 「……づぅ、ぅぅぅぅ!」 地を這うどころか、止まるどころか――目の前の少年は、金切り声を上げて耐えていた。 コルセスカの外装が、ガントレットの装甲が――音を立てて粉砕した。 散りゆく愛機を見定めながら、まるで大切な友達が傷ついたかのような悲痛の表情をクラウスは浮かべて――。 構わず振るう、厭わず突く。 ティキの目算は外れてはいない。軽く小突かれただけでクラウスの体は倒れそうなほどに消耗している。 ――それでもクラウスは進む。それでもクラウスは攻撃を続ける。 「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉ!」 無限の未来を見定めて、無数の未来を選択し、無尽の未来を引き寄せる。 ありとあらゆる可能性という未来。その中にはきっとあるはずだ。 (だから――進み続けろ!) ――かつてクラウスの前には、明確な力量差がありながら、明確な戦力差がありながら、それでも諦めずに向かってきた敵がいた。 (“彼”のように……!) 1人では止まれなかった自分を止めてくれた――彼のように。 (“ヴァン・ツチダ”のように!) “戦ってみたいと”。
(この……化物がっ!) ティキは心中でそう叫ぶ。限界を超えているはずなのに、それでも迫り来る目の前の少年に対して。 ……それどころか。 (死に体の餓鬼相手に、私が後退するなどっ……!) 迫り来る槍の連撃に、堪らず足を後ろに進めずにはいられない自分が信じられないし、許せない。 「そこまで私を、否定するのか――! そこまで理想の世界を否定するのか!」 知らず、ティキはクラウスに向かってそう問いた。 (確かに、お前のいう理想の世界は綺麗だ。けれど、誰もが本心で接すれば争いが無くなるなんてわけがない――!) 聞こえていたのか、それとも感じただけなのか。薄れゆく意識の中で、加速していく思考の中で、クラウスの明確な思考が告げる。 (誰もが、真摯に相手を思えるわけじゃない。誰だってつまらないことで癇癪を起こすし、その度に怒ったり、悲しんだりするんだ!) クラウスは過去の記憶を思い出す。昔のクラウスとヴェロッサは、とても仲のいい親友同士だった。 酷く言い争ったし、暴力すら使ってしまったことがあった。 「……だったら、それは相手の思考を知れば、それで解決する話ではないか!? (相手の感情を互いに知って――それで“仲直りの仕方”もわかるのか?) 「――なっ」 がつん、とティキは硬い鋼鉄で頭を殴られた気がした。 (相手が何を思っているか、それがわからないから人は相手を“思いやれる”んだ!) わからないから、手探りで。必死に考えて、解決方法を見出す。 ――それが絶対に、というわけではないだろう。あくまで一例に過ぎない理だ。 「…………違う」 他人の感性を少しでも感じ取れ考えることが出来る大人なら、相手の本心を知っても思いやれることは可能だろう。 「違う! 違う違う違う違う! そんなことはない! 子供だって、何も考えずに生きてるわけじゃない! 子供だって! 子供なりの価値観でちゃんと考えて――!」 そもそも大人といえども、他人を思いやれる人間が何人いるのだ? 「う、うううううぅ……!」 この世が悪人ばかりじゃないのは知っている。でも、この世が善人ばかりじゃないのだって知っている。 本心で触れ合えば誰もが理解し合え、世の中が平和になると言ったのはティキ自身。 「違、う……“私は”……“俺は”……!」 明らかに狼狽えるティキに、クラウスは攻めの一手を繰り返しながら――。 (ティキ・ニキ・ラグレイト! お前は、お前は……!)
“都合の悪いことに目を瞑ってそうなって欲しいと誤魔化しているだけだ!”
ティキを支える理想の土台、信念という一本の強大な大黒柱をへし折らんが為に――核心に触れた。
ざくっ、と――クラウスのコルセスカがティキを貫く。その光景に驚き目を見開いたのは、なぜかクラウスだ。 「――悪いのか。全ての世界が、隠し事も、争い事も、勘違いも、すれ違いも無くなって欲しいと願うことが……例え誤魔化しながらでも! 思ってしまっては悪いのか!」 肩を震わせ、ティキの凄惨な慟哭が反響する。 (……悪くなんか無い。お前の願い事は、お前の思いは、きっとこの世界で一番綺麗だろう) それは、確かだ。そして――ただ“それだけ”なのだと、クラウスは断言する。 ――赤い膿血が刃から柄に、そしてクラウスの手元まで滴っている。 同時に、彼の狼狽が嘘のように消え、先まで殺意に溢れた鋭い凄惨な目付きは、酷く濁っていた。 防御不要の不退転。肉を斬らせて骨をも斬らせ、己が命を落とそうとも、確実に相手の命を断つに。 脳内麻薬で痛みが消えたその体を闘志のみで奮い立たせての酷使。 (次に瞼を閉じれば、もう二度と目覚めることは無いかもしれない……) その身体に刻まれた傷の数々。死ぬかもれない重症、いつ事切れるかもわからない致命傷。 (――ふふっ、それもいい) 知らず、クラウスの表情には笑みが浮かんでいた。 ――守れるから。 間接的にであろうと、目の前の強大な敵を倒せれば。 (それほど、嬉しいことはない――!) 目の前の、世界の改革を志しそれの実行をも可能とする力を持つ男をクラウスは見据えた。 「――これで最後だ、殺してやるよ。クラウス・エステータ」 「――やれるものなら。ティキ・ニキ・ラグレイト」
最後に冗句を交わし合って。
“コルセスカごと力任せに引き抜く”
未来察知は発動し。
“力の鬩ぎ合いでは不利、コルセスカを一旦放り出して無手で対応する”
思考感染が発動し。
“遠心力でコルセスカを振り払い左の正拳突き” “突きを跳ね除け足払い、相手が態勢を崩したらコルセスカを拾いに向かう” “足払いを避けて追撃し――” “追撃をステップで避わし様に――”
未来を見る者と読心を聞く者の、無限に続く先読み合いが始まった。
“弾いて右を――” “躱しながら――” “蹴り――” “突く――” “一歩――” “防ぐ――” “殴――” “払う――”
加速する両者の思考。オーバーフローを起こし焼け付く両者の回路。
“はじく――” “うける――” “ きる――” “さける――” “ふせぐ――” “あるく――” “なぐる――” “よける――” “ふる――” “さけ――” “とめ――”
加速する、加速する、加速する、加速する加速する加速する加速する加速する加速する。
“あ――” “な――” “ほ――” “ま――” “ふ――” “さ――” “と――” “は――” “し――” “よ――” “あ――” “そ――” “さ――” “か――” “う――” “ら――” “こ――”
攻撃しているのか、攻撃されているのか。当たっているのか、当たっていないのか。
“と” “う” “が” “じ” “き” “ヨ” “し” “が” “い” “あ” “さ” “け” “き” “う” “よ” “タ” “し” “う” “ま” “と” “さ” “よ” “る” “ち” “ぇ” “た” “い” “ち” “よ” “だ” “い” “す” “き” “じ” “ま” “ん” “の” “よ” “め” “げ” “は” “は” “は” “は”
“■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■” “■”
その光景を目撃すれば、きっと誰もが己が目を疑うだろう。 超高速の槍術と拳技による縦横乱舞。彼らの踏みしめた大地が堪らず弾け飛び粉塵が吹き荒れる。 しかし、真に驚愕すべきはそれらではない。 ――“当たらない”のだ。 もはや常人では知覚することすら困難であろう攻勢だというのに、2人はこの最後の戦いにおいて“受けた傷がない”。
“ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ”
それでも、終わりは来る。無限に続く輪廻のようであろうとも、それが命を削る戦いである以上――終わりはそこに、やって来る。
“ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “ ” “―” “ ” “――” “ ” “――――” “――――、”
途端、青天井に上がり続けていた思考速度が戻ってくる。
“ティキ”は何が起きたのかを理解した。感覚的な話ではあるが、“自分の頭の中のヒューズが弾けた”のだと。 先ほどまで無地のキャンパスのように真っ白だった視界は鮮明に景色を取り戻していく。
(俺はこいつに……)
ならば、必然。
(負けたんだ)
闇に沈む意識の中で、ティキは最後の光景になるであろうその景色を眼に焼き付ける。
『お前が声を出せない、話が出来ないってんならさ』
どこにでもいる、少しだけわがままで、ガキ大将のつもりでイキがっていた少年の姿が脳裏に浮かぶ。
『俺が、お前の変わりに声を出すよ。お前が声に出したいことがあったらさ、文字を書いて俺に教えてくれ』
そんな似合わないセリフを、友達に面と向かって照れくさそうに呟いて。
『お前は、俺が守ってやるから!』
――ああ、そうか。クラウスとよく似た眼をしていたのは、その少年だったんだ。 けど、果たしてそれは誰だったか。少なくとも、私ではないのだろう。
『さあ■■■! 今日も沢山、遊ぼうぜ!』
あの少年の、成れの果てであっては溜まったものじゃない。
そんなクラウスの思考を最後に聞き――ティキは己の死を実感しながら、静かに目を閉じた。
■■■
「ゲームセット、勝者クラウス・エステータ。ご視聴の皆様は、両者の健闘を称えまして惜しみない拍手をお送りください――ってとこですかねー」 先の激闘が嘘のような静けさを保つそこに、突如空間が歪んだかと思えば奇妙な独り言を呟く1人の少女が姿を現した。 「負けちゃいましたねー、ティキさん。もう使いものにはならないでしょうが、お望み通り回収くらいはしてあげますよー」 そうボヤキながら彼女は倒れこむティキの肩に手を回す。 そして彼女が虚空を見定めると、ミッド式の魔法陣が浮かび上がっていく。 (……ま……て……) と、心の声をかける存在がいた。 「……まだ意識があったんですか、クラウスさん? もう驚きを通り越して呆れますよー、どれだけタフなんですか貴方は」 ここに来て。前のめりに倒れこんでも未だ気を失わなかったクラウスは賞賛にも値するタフネスぶりだろう。 「まっ、起きてるなら丁度いいですねー、1つ聞かせてくださいよ。貴方はなぜ“ティキさんを殺さなかったんですか?”」 ――ティキ・ニキ・ラグレイトは、まだ生きているのだから。 「最後、簡単に殺せたじゃないですか。というか、そもそも貴方はティキさんのぶっ殺してやると考えていたわけでしょう? なのに、なんでデバイスを突き入れずにギリギリで止めたんですか?」 そう――クラウスは“頭蓋を貫く”と明確に思考していた。 (…………ま…………て……) 「あ、ひょっとしてもう自分の声――聞こえてません? 思考感染してますもんねー、隠し事なんて不可能ですからねー。もう意識を保つことだけで限界ですか。 “一生機会は訪れない”のに、と彼女は呟いた。 「貴方、全身打撲に裂傷、挫滅傷、杙創、内出血、外傷骨折、複合骨折――おや、開放骨折もしてますね。壮大に吐血していたところを見ると内臓破裂もあるでしょうか? もしくは折れた骨が内蔵を傷つけた臓器損傷? 彼女はと唇を釣り上げて、花が咲き誇りそうなくらい満面の笑顔を浮かべ。 「貴方、なんでまだ生きてるんですか?」 そう吐き捨てる。 「ふふっ。といっても自分は貴方が気に入りましたので、まだ死なないで欲しいのですがねー。この世界にはオルブライト一族という医神アスクレピオスも驚く伝説の医療一族がいるらしいですよ。 遠い過去に思い馳せるように、彼女は空を見上げた。 たった一人で彼女は喋り続ける。その場に耳を貸している者など一人もいないということを理解していながら。 「えへへ。ま、それは結局上手くいかなかったんですけど。彼がやって来る時間を見計らって、とりあえず自殺を実行してみたものの失敗して本当に“死んじゃった”んですよねー。 そう喋り終えると同時に、魔法陣が完成する。どうやら無駄話を続けながらも術式の構成は行なっていたらしい。 「それではさようならクラウスさん――ああ、申し遅れました。私の名前はカルニヴィア・オデッセイ。“都合がよろしければ、また会いましょう”。今度は貴方の言葉を交えてお喋りがしたいものですね」 ああ。話し込んでたら、会いたくなって来ちゃったなー、今はどこで何をされているんでしょうかねー。愛しの“大将”は――そう言い残し、彼女たちは姿を消した。
(…………て、が……み……手紙……パルが……ロッサが……う、う……所、長だ……所長を助け、ないと……手紙……所長……) 孤児院の大切な仲間から、そして大切な友達から届けられた手紙。 (……もう……なにも、見え……) リズムを刻む心臓の鼓動が、徐々に小さくなって、血の気が薄く冷たく引いていくのがわかる。 (僕は……ここで……こんな、ところで……) 最後に、聞こえないはずの耳で何かが水辺へ落ちるかのような水音を聞いて――。 (死ぬ……の、か……) クラウスは、瞼を静かに閉じた。
■■■
海上隔離施設襲撃事件と名付けられた出来事から、数日後――。 「ティキ・ニキ・ラグレイトの失敗は、クラウス・エステータに負けたことなんかじゃない」 高級そうなワイングラスに注がれた、これまた高級感溢れるワインの匂いを楽しむ盟主の姿はあまリにも絵になりすぎていた。 「というと?」 「無論、一番の失敗は私の手を取ったことだが――強いて言うなら“全ての人間を救おう”と考えたことだ。仮に彼が“手の届く一部の者だけ”を思考感染で救おうとしていたならば、彼は神様になれた。 「そんなものでしょうか」 「そんなものなのだよ。ある意味で共産主義に近いところがあるからね、ティキの理想は。新興宗教として興していればどれほどの規模になったか検討もつかない。ちなみに二番目は“自分の思考を他人に伝達出来なかった”ということか」 「ああ、それはわかりますよ。思考という情報公開で平和を実現しようとする男が、自らの思考を閉ざしているのでは説得力が無さすぎる。上に立つものは、まず己から行動しなければ下は付いて来ませんし」 「それで面白いのが、彼が理想の平和と同等に望んていた者が側にいるにも関わらず――」 盟主はさも楽しげに嘲笑し、掌のグラスの中で揺れる血のように赤いワインを見つめた。 「ティキとカルニヴィア、互いが互いを求める相思相愛っぷりで、奇跡のようにすれ違っているのだからこれが笑わずにいられるか?」 「意地の悪い。教えて差し上げればいいものを」 「他人の恋路に口を挟むものではないからな。それに教えたところでもう無駄だろう? ティキの再起は不可能、まったく彼も運悪くヤブ医者にあたってしまったものだ。まぁ、彼のレアスキルには使い道があるから保存はしてるがな」 「元々拾い物でしたし、どうでもいいですけどね」 くだらない玩具が壊れただけだと、シスターは興味を示さない。 「それはそうと、盟主は結局クラウス・エステータを仲間に加える気だったんですか?」 「始めは、ティキに勝つようならそのつもりもあったんだが――あれはいらん。あれは“正しいと思える道”を歩かなければ本気になれない属性の愚者だ。強制的に引き込んでも、こちらにいる限りヴァン・ツチダにすら何回やろうと勝てはしない、な」 そんな応えに応じながら、ふと、思い立ったように盟主は目線をシスターに移し、“そういえば賭けの払いがまだだったな”と伝えた。 「賭けで負けたのは初めてだ、実に気分がいい。やはり不確定要素の集合が現実という実像を作る以上、偶にくらいは外れてくれなくてはつまらん。何をして欲しい? なんでもいいぞ。死ねでも許可するが」 「……こんなくだらないことでスペアを消費しようとしないでください。そうですね……」 シスターは何がいいかとしばらく考えこんで、“では――”と切り出す。 「あと数週間で“あの子達”の命日なんですよ。よければ、一緒に冥福を祈ってもらえますか?」 「――おいおい。それこそ、こんな“くだらないこと”で願うことではないだろう……まぁいいさ。なんでもいいと言った以上な。なら祈ろうではないか」 ついでに、二度と祈りも出来ない貴様の代わりに祈ってやるよティキ。そしてありがたく思うといいクラウス。 一口のワインをあおり、盟主は静かに目を閉じた。ただ、死者たちの冥福を祈るために。
■■■
後日談として、その後の詳細をここに語ろう。 「あの時はもう駄目かと思ったよ。二度とあんな目に合うのはゴメンだな、そう思うだろうクラウスくんも」 「……けど僕たち、よく生きてましたね。いや、とても嬉しいのですが……」 2人並んで施設の病室のベッドの上で元気に過ごしていた。といっても、クラウスは5日ほど目が冷めなかったのだが。 「ああ、私はあの侵入者に頭蓋を砕かれてほぼ死んでいたような状態だったらしいし、君も全身余すとこなく重症だったからなぁ。実際、この施設の担当医達も『これはもう私達の仕事じゃなくて葬儀屋の仕事だよ』とお手上げ状態だったらしいからね、はっはっは!」 「なんでそんな悲惨なことを笑って話せるんですか貴方は……」 キャラが変わってないかこの人、とクラウスはげんなりとしながらそう思った。 「いやぁ、私達は本当に運がよかったよ。何せ、医学界では伝説とまで謳われる医療集団オルブライト一族――に“匹敵すると言われている”医師が施設の収監者にいて、とある交換条件と引き換えに手術を請け負ってくれたんだから。 「あはは……それは、なんて運のいい……」 もしくは――なんて都合のいい、と。どこかで聞いたような気のする言葉を思い出す。それを言っていたのは誰だったか。 伝説とまで言われる医療一族に匹敵するというだけで、死にかけていた人間の負傷をここまで綺麗さっぱり治してしまえるのだろうか。 (――それでも、僅かに残っているんだ。彼と戦った記憶の残滓は) 脳のダメージによる、一部の記憶欠損。命を落としかねなかった重症と引き換えに、クラウスはティキとの激戦の記憶を失っていた。 そもそも、男性が目撃したのは本当に真実なのだろうか。レポートに書かれている内容をみれば白昼夢でもみていたのではと疑ってしまう。 クラウスのベッドの枕元には、グシャグシャにされた折り目も皺もない、ヴェロッサから届けられた当時のままの“手紙”だった。 彼は思考感染の能力を受けて、思考が伝達するようになっていたことを利用し手紙を追うことと助けを求めることを両立させたのだ。 2つの意味で、僕は彼に救われたのだなとクラウスは感謝してもしきれなかった。 海に落ちた際、手紙は海水まみれになってしまったが、そこは魔法の国ミッドチルダ。 「そうだ、クラウスくん。君のデバイスのことなんだが」 「っ! コルセスカは、僕のデバイスは直るでしょうか?」 さながら大事な友達でも心配しているかのような、切実な不安の表情を作るクラウスに所長は微笑みながら言葉を返す。 「問題ないよ。重要なパーツは破損を避けていたからね。ただここの設備じゃアームドデバイスの修復は難しいんだ。そこでなんだが、ここは一つ私に預けてみてくれないか? 知り合いに信頼しているデバイスマイスターがいるんだが、彼女の腕ならきっと完全に元通りにしてくれるさ」 「っ! 是非お願いします!」 「ああ、任せてくれ。早速デバイスマイスター……カブリオレさんというんだが、連絡を入れておくよ。君は私の命の恩人だからね、このくらいはさせて貰わなければ気が済まない」 「……恩人?」 「ん? その通りだろう。君がいなければ私はおそらく死んでいた。君は私の恩人で、ヒーローだ」 「――僕は、ヒーローなんかじゃありません」 表情に暗い影が差し、クラウスは震えながら俯いた。 「なぜ、そう思うんだい?」 「僕は、最後に“手を止めました”」 それは、唯一はっきりと覚えている唯一の部分。 「彼の存在は次元世界規模に匹敵する危険と知りながら……最後の最後で“保身”に走ったんです」 殺すと、その頭蓋を貫いてやると混じりけのない殺意を浮かべた瞬間――クラウスの脳内に浮かび上がった景色があった。 「馬鹿ですよね……“殺さなくても捕まえればいい”なんて甘い考え方をしたから、僕は彼を逃してしまったんです。限界を超えていることなどわかっていたのに、その状態で気を抜いてしまえばもう指一本動かなくなることくらい……わかるものだろう……!」 俯くクラウスの瞳から――小さな雫が落ちていた。 「僕が罪を重ねることなんかより、彼を捕まえることの方が重要だったのに! そもそも、僕がここにいなければ、彼がここを襲撃することも!」 「クラウスくん、それは違う」 クラウスの悔しさが滲み出る慟哭を、所長が制す。 「何がですかっ……」 「ティキ・ニキ・ラグレイトの目的は、君だけじゃなかったんだ」 「……え?」 「彼は――まず始めに私がいた“所長室”を襲撃した。所長室のコンピューターからは施設のデータバンクに直接介入出来るからね。彼は思考感染で私に起動パスワードを割らせた後、過去の収容者達のデータを盗みだし――そしてその後、私を引きずって君の元へ向かったんだ」 「……収容者のデータを……?」 「そう……だからクラウスくん、例え君がここにいなくとも、ティキはここを襲撃したんだよ。逆に言えばね――君の魔法封印を解除する為に生かしておく必要がなかったら、私はパスワードを知られた時点で確実に殺されていたんだ」 「それ、は」 「これでも、君は僕の命の恩人じゃないのかな?」 「…………」 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、クラウスは涙を拭う。 「ティキを取り逃がしたのは、何よりも私の責任だよ。だから私は、おそらく辞職を免れない。これほどの不祥事だ、誰かが責任を取らなければね」 所長は静かに告げる。それに対してなんと言っていいのかわからないクラウスは、沈黙せざるを得なかった。 「この仕事に未練がない、といえば嘘だ。私は、暗い顔でこの施設に入って来た子が笑顔で旅立っていくことが何よりも誇りだったから。時々ね、社会復帰した子達からその後の状況を書いた手紙が届くんだけど、これがまた嬉しくてね。大変だけど、頑張ってるよって……」 「……僕が、彼を捕まえていれば、貴方が首になることも……」 「――ふむ、君の悪癖を1つ発見したよ。君は何もかも背負い過ぎだ。生真面目過ぎる……それは良い所でもあるけれどね――それに例え君がティキを捕まえていてもどの道、私は辞めることにしていたさ。“守るべき者を自らの代わりに戦わせた”など――それこそティキの所業よりも罪は深く重い。 はっはっは。再び所長は楽しそうに笑った。 「クラウスくん、都合が悪いことなんて、不幸なことなんて誰にだって訪れるものなんだ。取り返しがつかない後悔に苛まれることもあるだろう。だけどね、重要なのはそれと如何に向き合うことだと私は思う。 所長は拳を振り上げ咆哮する。所長が自分自身でそう鼓舞する姿に、クラウスの胸奥から熱を帯びた何かを感じていた。 「こう考えて、私は生きようと日々思っているんだ。こう考えると、人生が楽しいからね。クラウスくん、君がこれからどう生きるか、それは君が決めることだけど――こんな生き方をしている男がいることを、良ければ心の片隅に置いてくれると嬉しい」 そう言い終えてから、所長はベッドから降りてクラウスに前に立ち、ぴんっとまっすぐに背筋を伸ばして――。 「私を助けてくれて、本当にありがとう」 綺麗な動作で敬礼をして、頭を下げた。 「……頭を、頭を上げてください」 その言葉を聞いて、頭を上げた所長は見た。先よりもさらに大粒の涙を流すクラウスの姿を。 だって、それは少しだけぎこちないものではあったけれど。 クラウスは、確かに微笑んでいたのだから。
■■■
「いやああああああああああぁほおおおおおおおおおおおおおおおぉ! 手術の交換条件でルーチェ隊長の写真が戻って来ましたよー! たった2人の患者を内蔵眺めながら切り貼りしただけでこの報酬! これだから医者は辞められません!」 「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! 救助活動をやったご褒美にペンと紙ゲットオオオオォ! 書ける、書けるぞおおおおおおおぉ! どんどん妄想もといアイデアが溢れでてくるぜー! ありがとうクラウスさーん! 新刊はあなたが表紙でーす!」 隔離施設の一日単位で誰も使用しない古びた倉庫の中に2人の男女が狂喜乱舞していた。 おそらくこの2人にとって理想の世界とは今この瞬間なのだろう。ペンと紙、そして想い人の写真があれば、それで天国なのだろう。
自分が失語症になった時のことは、正直あまり覚えていません。 車を運転していたドライバーを恨む気持ちはありません。だって事故なのですから。 ふふっ、いやいや、寧ろ恨むどころか――感謝をしたいくらいです。 言葉を話せないから、友達なんて出来なかった。友達なんて作れなかった。 いや、いきなり殴られた時は痛かったなぁ。 今だから正直に言っちゃいますけど、大将が自分の家に謝りに来た時ね、実は殺そうと思ってたんですよ、大将を。 だから、そんな思いを全て血が出るまで自分を殴ってくれやがった男の子にぶつけてやろうって、思ってたんですよ。 まあやらなくて結果的に大セーフだったんですよね。 あの日から、大将はこんな自分に一生懸命構ってくれました。 そうしている内に自分の中から大将への憎しみがなくなって、変わりに嬉しさが溢れていって。 初めて携帯電話を買って貰って、これで大将と文字でだけど話せるなとウキウキしながら見せた時の大将の表情は、こうして生まれ変わった今でも忘れません。 ――それから何年かたって、大将もいつか自分の側からいなくなっちゃうのかなとふと気づいてしまった、あの日。 自分は大将にとても酷いことをしました。意味もない罵詈雑言を書き連ねた文章を怒り狂った演技をしながら投げつけて。 ずっと一緒にいて欲しくて自殺の真似事をして大将を自室で待っていたのに。 ……大将は、今どうなされているのでしょうかね。 大将に守られる弱者が恨めしい反面、やはり大将はそんなヒーローが似合っているという思いもあって、複雑です。 そうだったら、嬉しいな……一応、あの事実無根の罵詈雑言には『仕掛け』があったのですが。 改行していない文章の一文字目を縦読みしていただけると、自分の本当の気持ちが現れる。 しかし、自分が大将に構って欲しくて自殺したってことを気づいたら、大将は自分のことをどう思うでしょうかね。 それでも、大好きだから。それでも、大好きだったから。 自分が死というものを実感したあと、自分は生まれ変わりという奇跡を経験しました。 ひょっとしたら、また大将に会えるんじゃないかって希望にすがってね。
愛しい大将。貴方は今、どこで何をしているんでしょうか。
性別すら変わってしまいましたが、自分は、ここにいます。
もし縁があったのなら、また会って、今度は自分の『声』で、お喋りしましょうね。
『だいっ嫌い』 『嫌い』 『会いたくない』 『信じてたかったのに』 『近づかないで』 『なんで教えてくれなかったの』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『放っておいて』 『いらいらするから』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『すごく嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』 『嫌い』
『きらい』 『だから』
大好きだよ、大将。
|